四季の花

「東方の物置場」SSコーナーへ
 視界一杯に広がるふわふわの桃色雲を見て、映姫は屋台で見かける綿飴のことを思い出した。
 天から綿飴の大王が降りかかろうとしている。事態の分からないまま桃色を避けるように腕を伸ばしたが、雲まで手は届かない。伸ばした手の指から距離を推し量る。桃雲は掴めないほどには遠いが、空の雲よりは遠くない。ならばあれは何物か。
 確かめようと必死に空を掻いていると、映姫は顔面に得体の知れない冷たさを受けた。甲高い悲鳴を上げて飛び起き、手で顔を拭う。無味無臭、無色透明の液体で頭から濡れている。
「目は覚めたかしら」
 あたりを見回すと、隣に穏やかな笑みを浮かべた幽香が座っていた。
 いつも通りの格子柄の服を着た花妖怪は、厚手の陶器カップを手にしていた。きっとあの中身をかけられたのだろう。ただの水のようだ。文字通り、冷や水を浴びせられたわけだ。
 はて、いったい何が起きたのだろう。
 映姫は現状を整理しようとした。どうやら酔っぱらっていたらしいが、なぜ酔っていたのか。それよりも、まずここはどこなのか。基本的なことから考え始める。
 そうだ、これは妖怪の山の麓で開かれている桃見の宴だ。部下の小町に同行を強請られてやってきたのだ。 
 近頃は気がふさぐ日々が続いて宴気分ではなかった。顔見知りの様子を伺う程度に参加して早々に退散するつもりだったのに、潰れるほど酔ってしまうとは情けない。
 状況を悟ると、映姫は濡れた顔のまま幽香に頭を下げた。
「……ありがとうございます」
 そうしてハンカチを取り出して顔を拭う。水は顎を伝って閻魔服まで濡らしている。映姫は上着を脱いで水を払った。 
「私は静かに花が見たいの。酔っぱらいの寝言を聞くのはとても不快」
「すみませんでした」
 幽香に責められて、再度謝罪をする。
「しかし、どうしてあなたが私のそばに?」
 映姫と幽香の付き合いは浅い。まさに顔見知り程度の仲だ。花の異変の際に弾幕ごっこと説教をした思い出しかない。
 そして幽香は、面倒見よい妖怪というわけでもなかった。礼儀は正しいが邪魔な物は遠慮なく踏みつぶす。そういった性格のはずだ。
 そのような慇懃無礼な妖怪が、酔って正体を無くした映姫の側にいるのはなぜなのだろうか。
「私があなたのそばにいるのではない。あなたを死神が連れてきたのよ。宴の中にいたら酒乱の騒動に巻き込まれそうだから、白爪草の上に寝かせてくれって」
 幽香が地面を叩いて見せた。幽香の居所から映姫が寝ていた箇所まで、白爪草が敷物のように密生していた。
 映姫は宴会の中心を探すことで、現在位置を確認した。
 緋毛せんが敷かれている宴の場からやや外れた、一本桃の木の下にいるようだ。
 居住まいを正しそうと映姫は背を伸ばし、酔いが抜けきらなずに目眩に襲われる。
 背中から崩れかけた所を、硬い柱にぶつかって止まった。
 仰ぐように見ると、傾いだ体は大きなひまわり支えられている。とっさに幽香が生やしたものなのだろう。映姫の背丈よりも高く、茎は手首と比べられるほどに太い。
 幽香は魔法瓶からカップに中身を注いだ。
「水よ。飲む?」
 体を立て直し、映姫はカップを受け取る。
「頂きます」
「死神の言葉はまんざら嘘じゃなかったわね」
 しみじみと幽香が言った。
「……何かあの子が余計なことでも?」
 おしゃべり好きの死神の無駄口を恐れながら尋ねる。
「ええ、ひどいことを言われたわ」
 言葉と裏腹に、幽香は穏やかに笑ってみせる。
「私は他人の神経を逆なでしたり弱い者を虐めるのが好きだって」
「……しかし、それは外れてはいない」
「上司も上司でひどいわね。でもそれだけじゃない。あなたは竹を割ったような性格だしめっぽう喧嘩も強いから、私が何をしたって堪えない。だから私みたいな暴虐な妖怪の元にも安心して預けられる。ですって」
 幽香はしげしげと映姫を見た。
「ほんとうねえ。あなた、寝耳に水でも蛙の面で。お酒抜きなら堪えないし乱れないのねえ」
「私の不徳を責められて憤るわけにはいかないでしょう。花見を楽しまれているところをお騒がせして申し訳ありません」
 カップの水は冷たくて甘かった。一杯飲み終えるころには、映姫の頭は大分すっきりしてきた。
「――それでもこのやり方はどうかとは思いますが。あなたは少し直截すぎるところが」
「映姫、うるさいわ」
 ぴしゃりと言われて、映姫はいいかけの言葉を飲みこんだ。
 幽香が笑う。夜半に咲く月下美人の様だ。慎ましくも艶やかに咲き、夜の闇を飲み込んでしまう怪しい花の雰囲気を持つ笑い方だ。
「今度は、少しは動揺したみたいね」
「……ええ。親しくない人から名前で呼ばれるのは珍しいものですから。とても奇妙に感じました。あなたは私をそう呼ぶのですね」
「宴で、親しくもない相手に説教をするのも大概だと思うけれども」
 幽香は遠くの桃の木を眺めながら指さした。
「あの木は、学者が呼べばプラヌス・ペルシカ」
 話に付いてきているか確認するように映姫を見るので、頷いた。
「けれども普通はただ桃と呼ぶでしょう。その場にふさわしい呼び名がある。なんにでも白黒つけたがるあなたなら閻魔。酒に酔って草の上で泳ぐような小娘は映姫で十分じゃないのかしら」
「つまり、親愛表現ではなくて見下しの呼び捨てなのですね」
「そうよ」
「なるほど。それで腑に落ちました」
「ずいぶんとさばけた閻魔なこと」
 嘲りを素直に受諾する映姫に、幽香はあっさりと目を離して傍らの一升瓶に手を伸ばした。お酌をしようとしたらやんわり断られる。
「お気づかいなく。自分のペースで飲むわ」
 幽香は手酌で杯に日本酒を注いだ。水の入った魔法瓶とマグカップを用意しながらも、酒は酒で飲んでいたようだ。
「ずっと一人でこちらに?」
「霊夢が日本語を喋っていた頃は向こうにいたわ。雑音のそばで花見はしたくないの」
「私はお邪魔じゃないんですか」
「邪魔よ。でも仕方ない。あなたを宴に返したら死神が騒ぐでしょう。余計うるさくなる。今だってほら、天狗の記者と揉めていて煩わしい」
 幽香の指した方向に、映姫はすぐに小町を見つけた。赤い髪をした大柄な部下は見つけやすい。文と杯を乱暴にぶつけあいながら話をしていた。
「閻魔様が悩み疲れているとか、裁判がどうだとか。何のことかしら」
 その話かと、映姫はうんざりした。
「守秘義務ですよ。話せる事じゃありません」
「なるほど。仕事の憂さ晴らしで酔った挙げ句、天狗の聞き込みから部下の手で逃がされたのね」
 幽香に指摘されて初めて小町の配慮に気がついた。
 ――情けない。
 顔を歪める映姫に、幽香は水の入っていたカップを逆さに降って空にした。それを映姫に向かって差し出す。
「騒ぎは嫌よ。死神と一緒に喧嘩をしに戻るなんて言わないで。これで飲む? 器を持ってくる?」
「いえ、これで頂きます」
 幽香は映姫のカップに酒を注ぐと、自分の背後にも巨大なひまわりを生やした。足を伸ばして座り直し、ひまわりの茎を背もたれに使う。
 映姫は背中にそびえる二本のひまわりを眺めた。
 この花の妖怪は見事な大輪をいとも簡単に生やしてしまう。宴が終わったらこのひまわり達はどうなるのだろう。放置されるのか。枯らされるのか。どちらにせよ、季節外れに咲いたひまわりが夏を迎えることは難しいのだろう。
「――あなたは花の命を気安く扱いますね。どういう気持ちで操っているのでしょうか」
「命なんて考えないわ。花は一輪でも群れでも花」
 幽香は舐めるように酒を飲んでいる。年季の入った大妖怪だ。あおるほど強くない、という訳でもないだろう。ちびちびと飲むことを好んでいるようだ。
「この大きさのひまわり一つが実らす種は、二千から三千といったところ」
 幽香が映姫の背中のひまわりを指すと、みるみるうちに茶色くしおれてきた。大きな頭がうなだれる。大金槌のような頭が今にも上から落ちてくるのではないかと映姫が危惧していると、幽香は立ち上がってひまわりの頭を指で断ち切った。ひまわりの首を掴んで振る。ざらりと白黒縞模の種が桃の木の根本にこぼれる。
「鳥に啄まれる種、足下に落ちる種。花をつけられるのは果たして幾つ?」
 落ちた種は、たちの悪い弾幕のように密集していた。全てが根を張る隙間はあるまい。
「この種は花の命? それとも花の命の種? 咲いた花の種だけが花の命を持っていて、咲かなかった種は花の命は持ち合わせていなかった?」
 幽香は禅問答のよう話をした。
 映姫は閻魔という職柄、問答は嫌いではない。そこに一つの正答はなく、それぞれの自己の道がある。道を照らすのが問答だと思っている。
 今は自分の道と幽香の道とを照らし合わせるよりも、幽香を純粋な目で見てみたかった。映姫は黙って幽香の話を聞く。
「落ちた多くの種は、途中、腐って土に戻る。土は死体といってもいいでしょう。春夏秋冬一年中、土から出してと様々な魂が泣いている。閻魔様のあなたには聞こえない?」
「閻魔は内から裁く者で、外を聴く者ではないんですよ」
「そう。それはお幸せでお気の毒」
 幽香が靴先で土を叩くと、白爪草の間にタンポポが芽吹いて黄色い花をつけた。
「私は声を聞いて、こうやって時々出してあげるだけ。愛しい花の命がどこにどうやってあるかなんて知らないわ。いつも周りで声がする。呼べば必ず現れる。花が尽きれば私も尽きる。私がここにある限り、どこかで花が生きている。私と花との境界に興味はない。――そんな境界は作らせない」
 語り終えると幽香は杯を傾けて空にした。日本酒の瓶を手に取って、新たな一杯を手酌する。またお酌の機会を損ねてしまった。
「それにしても宴の花の前なのだから、もっと謡うようなお話をしたいわね。閻魔に花を求めても仕方ないのかしら」
 幽香はひまわりの種の山の上から一粒を掴んで前歯で噛んだ。ぱきりと殻の割れる小気味良い音がする。
「食べるんですか」
 映姫が驚くと、幽香は不思議そうな顔をした。
「ひまわりの種を食べたことはないの?」
 幽香は中身を取り出して食べると、殻をそこいらに放り投げる。
「食用種が珍しいのではなく、あなたが食べるのが。なんというか」
「花が花を食べている」
「ええ。それです」
「食べるわよ。ほら、お米の澄まし汁も飲んでいるでしょう」
 杯を宙に浮かせて、幽香はまた乾盃して見せた。次を飲む気は無いのか、空の杯を白詰草の上に置く。
「食事を取らなくてもどうってことはないけれども、食べるのならば動物よりは植物が好きね。食べたいぐらいに愛しているわ」
 幽香は一握りのひまわりの種を握ると、映姫の膝の上にこぼした。スカートの布地の上から映姫の腿に、種の雨が弾ける感触が伝わる。
「今日の桃は幸せものよ」
 幽香は背側にある一本桃の木を仰ぎ見た。
「どれもこれも皆に見つめられて、嬉々としてはしゃいでいる」
「――でも、私にはこの光景は少し鮮やかすぎます。桃という色には、なにやら心を浮かばせられて持って行かれてしまうような不安がある」
 映姫が言うと、幽香はまたひまわりの種を口にした。
「そうね。梅も桃も桜も人を連れて行くわ。だからお酒と合わせるのでしょうね。毒を食らわば皿まで。我を失うなら酒樽の底まで。わずかしかない春の季に浮かれ狂うも、怯えて縮こまるも、それぞれでしょう」
 心広い理解なのか、それとも婉曲的な嘲りか。幽香の話し方には独特なものがあって理解しづらい。
 映姫は膝の上のひまわりの種を見下ろした。少なくてもこれは理解ができる。お裾分けだろう。礼儀ばかりに一粒を手にとった。殻を割って食べてみる。
「どうかしら。お口には合う?」
「まずくはありません。……率直に言えば、さほど美味しくはありません」
 初めて口にしたひまわりの味は、生焼け栗の芯の味に似ているだろうか。さっくりした生の木の実の歯ごたえと風味、それに植物油の甘さがした。青臭さと渋みが少し後に残る。
「なんだ、やっぱり食べたこと無かったんじゃないの。生でも食べるけれど、人間は炒って塩をふったりして食べるみたいよ」
 幽香は映姫の膝のひまわりの山に手を伸ばした。
 全てをまとめて握り掴む。爆ぜる音がした。
「ほら」
 幽香が手のひらを開くと、種から細い煙が上がっていた。香ばしい匂いがする。映姫は幽香を伺うようにしながら一粒つまんで食べてみた。
「ああ。これは美味しい」
 青臭さが消えていた。水気も抜け、硬く軽い歯ごたえになっている。
「私は生の方が好きよ」
 幽香は焼いた種をまた映姫の膝に戻した。
 強大な力を持ち、恐ろしくも紳士的な妖怪。幽香はそのように人の書物で評されている。淑女ではなかった。著者は、紳士という言葉が裏に持つ傲岸不遜にも通じる空気を的確に示しているのだ。
 洒脱なステッキで下々を打つ紳士。
 映姫も世間と同じく、幽香のことを内なる心でそう判定していた。
 幽香が日頃持ち歩く傘が、そのまま幽香の象徴だ。傘は天災を賢く受け耐える分別と力、世界から領土を切り分けることを許された階級を表す。
 八雲の妖怪も傘を持ち歩いている。古きより力を誇る妖怪が揃って傘を持つ。この事実は興味深い。
 そのような事を思いながら、映姫は幽香のことをより一層深く考えた。
 閻魔としての映姫が幽香を見れば、長く生き過ぎたことで途方もない罪を重ねた大罪人だ。だが閻魔の罰則に縛られずに軽々と越えてゆく存在でもある。黒白をつければ黒――なのに、色にかかわらず胸を張って道を行くものに、人は惹かれる。
 春の花のように鮮やかな生き様に人の心は掠われる。そしてそれは、映姫も例外ではなかった。
 困ったものたちだ。困った私だ。
 そうやって善悪好嫌ひっくるめた全てを分けずに認めることで、映姫は心を整えてきた。
 悪即斬と思いのままに斬れる世ならば、閻魔も必要ないだろう。心を判決の黒白に染めきることができない苦しみも悩ましさも、人を裁くという権力に附随する安全弁だ。苦しめ、そして忘れるな。
 たとえ海に浮かぶ小舟のように心が波に揺れようと、閻魔の目には灯台の灯りが見えている。船酔いに胸を突かれたとしても、進路を違えはしない。
 だから映姫は悩みながらも決して迷わず正しい道を進むのだ。
 ――自己問答を重ねてみても、照らされた道は他になかった。映姫は正しい道しか歩けない。
 
 日が傾いた頃、映姫は天狗を追い払った小町と合流して記者対策の一通りの話合わせを終えた。
 気がつけば、幽香は宴から消えていた。
 一本桃の下にには枯れたひまわりの花の跡も白爪草もない。ただ剥き出しにされた赤土に、一枚の白いハンカチが敷かれている。
 その上に、二つのひまわりの種の山が盛られていた。
 ――大量の種だけ残して、あなたはどうしろと言うのでしょう。
 幽香の気持ちを考えながら、映姫は今一度、焼けた種と生の種とを一粒ずつ食べ比べてみた。
 やはり、焼いた物の方が美味しい。


  夢見に宙浮く花送り、風は湿りを帯びていく。
  天は雷雨を看過して、青海に白雲湧き立てる。


 映姫は住処を二つ持っている。
 是非曲直庁から与えられた官舎の一部屋と、中有の道の一軒家だ。
 官舎は古い木造集合住宅だ。壁や床に掃除では消せない汚れが目立っていて、悪い意味で古臭い。住みよい自宅を別に構える職員も多かった。映姫もその一人だ。
 屋台や商家で賑わう中有の道の、外れにある売り家を買った。
 平屋の民家だ。周囲には見知った地獄の民の家が数軒あるだけで店はなく、人通りは少ない。土壁に瓦葺きで庭付きの、小綺麗な造りをしている家だ。敷地を取り巻く木塀は映姫の胸までの高さまで。人目が無いので目隠しの必要性もなかったのだろう。これが絶妙の高さで、居間から庭を眺めれば外の通りまでもを広々と見渡せた。
 総じて、映姫の趣味にあっている家だった。
 
 溶鉱を垂らしたような夕焼けが鈍色へと冷え固まってゆく。日が落ちると共に、降りしきる蝉の声が一斉に消えた。
 映姫は薄闇の庭に出た。居間と庭との仕切りに下げていたすだれを高く上げて屋根に留め、下に縁台を立てる。蚊取り線香を縁台の足に置いて、火を付けるだけの用意をする。
 夕涼みの準備をすませると、映姫はひと息ついて襟元を正した。
 その日、仕事は休みだった。出かける用事もなかったので、暑気よけにと一日を浴衣で過ごしている。
 今年に仕立てたものだ。白い布地に赤や黄色、緑の草花が描かれた浴衣はびいどろ玩具に近い透明な涼感がある。その上から黄色くふわふわと縮れた兵児帯をリボンの様に締めていると、映姫の姿は飾り紐を付けた菓子包みのようになった。童女のように幼く、くっきりと明るくなる。
 腕利きの仕立屋に言われるがままに注文した浴衣だったが、映姫にとって、甚だ不本意な出来だった。似合ってしまうからこそ不本意なのだ。
 夜用の紺の浴衣に着替えようか。黒地に近い紺と白のあれを着れば、ずいぶんと閻魔の風格を取り戻すことが出来る。
 そうも考えたが、誰に姿を見せるわけでもあるまいと現状に妥協した。
 ううん――と天に向かって大きく背伸びを打ったところで、松の影から現れた幽香と目があった。
 両手を空に挙げたまま、映姫は硬直する。
「今晩は」
 木塀を挟んで向かい合った幽香から先に挨拶をされ、映姫は手を下ろした。
「……今晩は」
「風があって涼しい夜ね」
 さらりと時候の挨拶をする幽香も浴衣姿だった。
 赤木綿に白、紺のビー玉柄は、お茶屋の娘が着るような無邪気な浴衣だ。そこに抹茶の帯を簡素な貝の口に締め、切れ上がった印象を添えている。手にはいつもの洋傘をぶら下げていた。
「夕涼みでわざわざこちらまでいらしたのですか?」
 幽香は中有の道から遠く離れた太陽の畑に住んでいるはずだ。あまり出歩くことのない妖怪だとも聞く。
 遠出に来た物珍しさに尋ねてみると、幽香は庭先を指し示した。
「それと、その子の様子を伺いに」
 指先には一本の巨大ひまわりがあった。春の宴で幽香からもらった種を育てたものだ。試しにと一粒撒いただけなのに、予想外に強靭に育ってしまった。
「ただ、ひまわりを見るためだけにこちらへ?」
「そうよ」
「ならば、明るい内に来れば良かったのに」
「あら、どうして?」
 幽香に言われてから初めて映姫は考えた。
「いえ……なんででしょうね」
 映姫はひまわりを見上げてみた。昼間が太陽の子供だとしたら、夜は幻の太陽だ。黄色の花弁がくっきりと闇に浮かんでいる。
「ここがあなたの家なのね」
「そうですよ」
 幽香はにっこり微笑んで玄関を指した。
「上がっても?」
 幽香を招き入れる理由は無かったが、断る理由の方がもっと思い浮かばなかった。

 映姫はもてなしの心に疎い。
 臨機応変という言葉は映姫にとって曖昧と同意だった。正否のはっきりした形通りの礼儀は身につけていても、相手に合わせて押したり引いたりするやりとりは苦手分野だった。
 ――仕方ない。閻魔は一方的に断罪する者なのだ。
 そのような物言いが世間で通じはしないとわかる程度には、映姫は世慣れてはいる。無礼講の宴ならばどうともなるが、一対一で差し向かえば苦手意識を刺激されて居たたまれなくなりがちだ。
「麦酒、飲みますか」
「ええ、頂くわ」
「茹でそら豆、食べますか」
「あら、ありがとう」
「……用意しますから、縁台にでも座っていて下さい」
 愚直なやりとりをして幽香から離れると、映姫は厨房に入った。夕餉用に用意していた茹でそら豆と塩を皿に盛り、麦酒の瓶とグラスと共に盆にのせて縁台へ運ぶ。
「いい縁台ね。壁向こうの通りの見晴らしが良いわ」
「今日は花火大会があるので庭に出してみたのですよ」
 縁台の幽香の隣に腰を掛けると、映姫は屈んで足下の蚊取り線香に火を付ける。マッチの燐が焼ける匂いと線香の香りが鼻先に上がった。防虫の煙が目に染みて、眇める。
「映姫」
「はい?」
 名前を呼ばれて、映姫は屈んだまま幽香を仰ぎ見た。幽香は眠そうな猫のように顔を緩めた徒っぽい笑い方をしている。
「今日はお説教はないのねえ」
 映姫は苦笑した。無粋な接待を率直に指摘されてかえって気が楽になる。
「お客にそれは、さすがにどうかと」
「映姫ならしかねないと思っていたわ。頂いても?」
 二人でグラスを注ぎ合って麦酒を飲み、肴のそら豆をつまんだ。
「ここに来る道中、天狗と死神が屋台で飲んでいたのを見たわ」
 幽香の話し口に容易く映姫は引っ張られる。
「――あの二人は話し好きですし、元々飲み仲間らしいですから」
「裁判がどうとか話していたわ。部下の守秘義務は大丈夫なのかしら」
 あからさまな棘で突いてくる幽香に、映姫は渋々と応戦した。
「ご心配なく。あの子は不真面目だけれども義理堅いんです」
「そんなのが部下ならため息もつきないわねえ。それで、その裁判ってどんなお話だったの?」
 臆面無く聞いてきた幽香に、映姫は眉をひそめた。
「ですから、守秘義務ですよ」
 映姫が話を断つと、幽香は楽しそうに泡だったグラスを傾けた。
「相変わらずお固い」
「すぐに変わる柔らかい規律なんて嫌でしょうに。付いてゆく人が大変です」
 話をする内に音花火が打ち上がった。祭まで間もないとの報せだ。映姫が音に気を取られている間に幽香は庭を指す。
「ねえ、気がついているのかしら」
 幽香が指した先はひまわりの隣。朝顔の鉢だ。今は蕾を巻き絞っているが、毎朝鮮やかな赤い花を咲かせる。
「あれ、咲いてもこの庭に全く合っていないわよ」
「……気がついてはいるのですが」
 花の大家に庭の見苦しさを指摘されて、映姫は顔を赤らめた。
「ひまわりが咲いたら何か花でも足してやらないといけない気になって、つい衝動的に出店で買ってしまいました」
「朝顔が合っていない以前に、まずはあの子がこの庭に合ってないのよ」
 と、今度はひまわりを指す。
「かといって、あれだけ育ったひまわりを抜くわけにもいかないでしょう」
「庭を潰して花畑にしてしまえばいいのに」
 幽香の冗談めかした大胆な発想に、映姫は笑って頭を振った。
「あなたに喧嘩を売るつもりはありませんが、私には花畑の中で目覚める生活は合いませんよ」
「季節の花がない庭なんて変わり映えがないわ」
「ですから、すぐ変わるような柔らかいものは苦手です。私が付いてゆけません」
 映姫はさきほど使った言い回しを意識的に繰り返してみた。そういうものが自分なのだと幽香に主張する。
「ふうん。私なら今からでもひまわりの植え替えができるわよ。やってあげましょうか」
 花を否定するような腹を明かせば苛立たせるか、より蔑まされるかするだろうと思っていたのに、幽香は友好的だった。
「いえ、すみませんがあれはあのままでいいのです」
 映姫はやんわりと断った。
「今となっては庭にひまわりが無いのは、少し寂しいところなのですよ」
 幽香は黙って、考えるように顎に手を当てて見せた。
「――あの朝顔の鉢植えは、もう少し玄関近くに置くのがいいわ。そうでなければ家の壁側にぐっと寄せてしまう。居間や縁台から庭を見て、ひまわりと一緒に視界に入ったら落ち着かないでしょう」
「ええ、」
 映姫は話の途中で閃光に照らされた。空を見上げる最中に遅れた打ち上げ音。すでに次の花火が上がりかけている。
 まずは単発。伝統の菊先花火が一発一発と打ち上げられた。
 菊先花火は繊細な花を咲かせる。線香花火と同じように、細い火線が夜空に丸く広げて消える。初めは金色一色の花。それから徐々に花弁先端の色を変える玄妙なものへと玉が変わる。花火の打ち上げ間隔が少しずつ狭まって、やがてスターマイン――連射連発式へと移行した。幾重もの花火が重なって咲き、開いては消える。
「朝顔を動かす前に、面白いものを見せてあげましょう」
 幽香は朝顔を指しながら指をくるくると回すと、朝顔のつぼみは指揮棒に踊るように頭を振った。大きめの蕾が回りながらゆっくりと花を広げる。
「花火と朝顔。実物はなかなか一緒に見られないでしょう」
 闇の中、空と地面で夏の花が咲いた。火薬が割れる音が次々に耳を打つ。胸まで響く。幻想の宴に引き込まれ、映姫は息を呑んで幽香の横顔を見た。
 かつて幽香は「宴では謡うように話してほしい」と言っていたが、自分はただの裁判官だ。このような夜は謡えない。
「――とても綺麗です」
 己の雅の無さに愛想をつかせながら映姫が精一杯の言葉を口にすると、幽香はいつもの紳士的な微笑みで受け止めた。
「朝顔と花火と言えば子供の浴衣柄の定番だけれども」
 幽香の悪戯っぽい台詞回しに、映姫は話の行き先を察する。
「映姫が着たら、なかなか可愛らしいんじゃないかしらね」
 紺の浴衣に着替えてれば良かったと後悔した。


 暑気と涼気を繰り返し、気づかぬ間に火月去る。
 真に浸み抜く闇を抜け、夜は清かに行き急ぐ。


 映姫の元に良い炭が届いた。
 切り口は鏡のように艶やかで、掴んで二つを打ち合わせると鋼同士で叩いたように硬く澄んだ音が鳴る。頂き物で、最高級の炭らしい。
 七輪で旬の魚でも焼こうかと思い、映姫は仕事帰りに中有の道の食料問屋に立ち寄った。幻想郷の里とも八雲紫とも通じている食料問屋だ。刀のように腹をてらりと輝やかせた秋刀魚に魅入られて一匹買う。脂の味を思い浮かべながら帰宅してすぐ、夕餉の準備をした。
 閻魔服の上着を脱いで、シャツの上から割烹着を着た。玄関近くに七輪を用意して、火を起こす。火力が落ち着くまで、映姫は檜椅子に腰をかけてぼんやりした。頃合いを見て七輪の前に屈み、網に秋刀魚を乗せる。火に溶けた魚の脂が炭に滴り落ちて焦げる音が心地よい。映姫は笑う。
「幸せそうね」
 降る声と、足下まで伸びた傘の影とで顔を上げた。
 塀の向こうでは洋傘をさした幽香が穏やかに微笑んでいる。格子の上着にスカート。白いシャツにに黄色のタイ。幽香定番の服装だ。
「今日は」
「……今日は」
 みっともないところを見られることにも慣れてしまった。映姫は平然と立ち上がって挨拶を返した。
「お散歩ですか」
「映姫の花を見に来たのよ」
 幽香の目的地にされていたと知り、映姫は首を傾げた。
「ひまわりと朝顔はもう終わりましたよ。他の花はありませんが」
「そうね、花を咲き乱れさせるガーデニングが似合う庭ではないし、映姫の趣味でもないのでしょうね。秋の花は難しい。野で見るのが一番いいわ」
 幽香の不思議な返答に、映姫はいちいち几帳面に問いただした。
「花を見に来たと言いましたよね」
「ええ」
「花はありませんよ」
「ええ。彼岸花でも見せようかと思ったけれども映姫は竜胆ね。それとも白菊。でも、どちらも庭には合わないわ。床の間に生け花でも飾ってみたら?」
「あなたのお話はどうもわかりませんね。謡うように話すのも良いのでしょうけれど、もう少しはっきりとしないと意思疎通すらできません」
「世の中はわかる話ばかりじゃないし、見える花ばかりじゃないというお話よ。足下も木の上も見渡して視界を広げる余裕が欲しいわね」
 訝しげにしている映姫に幽香は笑って玄関を指した。
「お食事の邪魔はしないわ。上がっても?」

 茶を出そうと家に戻りかけた映姫を、幽香はこう差し止めたのだ。
「お構いなく。そういうのは焼きたてを食べるのが良いのでしょう?」
 幽香は庭に向いた桟と畳に腰をかけていた。足を外にぶらぶらさせながら、映姫が秋刀魚を焼く様子をのぞき見ている。 
 無言の時を過ごす幽香に、映姫はふと思いついた。
「私は、いつも家にいるとは限りません」
 仕事で遅くなる事もある。官舎に泊まる時も稀にあった。
「ひょっとして留守中にもこちらに来ましたか?」
「閻魔の帰宅や休みなんて、天狗だって見当つけるわ」
「それはいささか問題のような気がします」
 世間話を続けていると、秋刀魚がこんがり焼け上がった。焼けた秋刀魚を皿に移して映姫は厨房に向かう。道中で幽香に声をかけた。
「秋刀魚は半身しか出せませんが、他の総菜はありますよ。食べますか?」
「私の主食は水だから。お水を一杯頂ければそれで十分」
 幽香はそう言って居間に入った。
 厨房の映姫は水壷からグラス一杯の水を用意した。だが、水だけで過ごす相手を前に自分だけが夕餉を取る訳にもいかないだろう。何かないかと少し考え、夏に採れたひまわりの種を思い出した。収納瓶から一握りの種を小皿に盛って、水と共に幽香に出す。
 幽香は珍しいほどに笑顔を崩した。口元の微笑みの形はそのままに、目を細く固めてこめかみを抑えている。
「映姫……私のことを鳥かネズミかと思っていない?」
「あ。いえ」
 映姫は幽香の思わぬ反応に口を押さえた。
「そういうつもりではなかったのですが。ああ、確かにこれではまるで餌――」
「大丈夫よ。わかるから言わなくていい。ありがとう」
 しっしと手の甲を向けて振る幽香に、映姫は苦笑して立ち上がった。
「やっぱりお茶も淹れてきます」
 厨房に戻り、湯を沸かしながら食事の支度をした。作り置きの里芋煮付けを幽香の分まで大鉢に盛る。湧いた湯を冷や飯にかけて湯切りをして温める。沸騰した湯の温度が程よく下がった頃に茶を淹れた。
 映姫が盆を持って居間に戻ってくると、幽香はひまわりの種を掴んでじっと見ていた。
「あの子の子供ね」
「ええ。たくさん種が取れました。炒った物もあちこちにお裾分けしましたよ」
 幽香の前にお茶と箸と、里芋をとりわける小皿を置く。幽香は軽く礼を言うと、再びひまわりの種に目を落とした。
「生の種も保存しておいたのね。植えるの?」
「せっかくの縁で見事な花を見せてもらいましたから、来年もどこかに咲かせようかと」
「あの似合わない庭に?」
「それはまだ決めかねているのですが」
 悩んで口を閉ざす映姫に幽香がどうぞ、と手で食事を示した。
「冷めないうちに」
「では失礼していただきます」
 映姫が手を合わせると、幽香も水の入ったグラスを掲げた。
 箸先で秋刀魚の腹を破り、脂がにじむ透明な層とほっくりした白い魚身を口に運ぶ。皮に振った粗塩の後に、脂の甘みが広がった。
 秋刀魚に舌鼓をうちながら映姫は合間を見て話を続けた。花の悩みは花の妖怪にするのが一番だろう。
「今度は数本は育てられたらなと思っています。かといって私の庭には難しいようですし、どこかの空き地を勝手に利用するというのも少しばかり閻魔としての格好がつかない。種をまいても空き地の周囲には水場がないですから、手近な井戸から如雨露や桶を持って毎朝水やりに行かなければならないでしょう。上手に咲かせられたら咲かせられたで種が増える。そうなれば再来年はどうしようと悩むのでしょうね。とかく、問題ばかりが思い浮かぶ」
「映姫。それ、真面目に考えているのよね」
 幽香の問いに、映姫は答えた。
「ええ。なにかおかしいですか」
「いいえ、とてもおかしくないわ」
 裏を含む様な妙な言い回しには気がついたが、映姫には幽香の感情を読み切ることは出来なかった。
 閻魔は何でもお見通しだと世では言われているがそうでもない。出来る事は、浄瑠璃の鏡を使って他者の過去の行いを見る事と、間違えなく死者の裁きをする事だけだ。
 地霊殿の主の様に生者の心を見ることは出来ない。言葉や雰囲気から心中を察するしかない。
 そして大物の妖怪は大抵、人を煙に巻く様な話し方をした。神々の勿体付ける様な話とはまた違っている。神々は正しい道を深い森に隠すが、妖怪は分かれ道の中の一つを、正否を告げずにただ堂々と指し示す。妖怪には導きはなく、惑わしがあった。
 幽香も妖怪の胡乱を持っている。花の赤と人血の赤を同じ笑顔で語る。映姫はそこに罪深さを判じた。混沌の大局観をもつ花の妖怪は、少なからず非道を表しすぎている。そして映姫は思うのだ。私は将来この妖怪を地獄に落とすかのもしれないと。
 しかし映姫はこうも思っていた。
 ――幽香を地獄に落とすことは、まずないだろう。
 花が尽きれば自分も尽きると、以前、幽香は言っていた。花が尽きなければ幽香は尽きない、とは言ってはいない。だが、映姫には幻想郷全ての花と幽香の命は同値なのではないかと思っていた。
 幻想郷の全ての花が枯れない限り、幻想郷の花の主である幽香が死ぬことはない。と。
 この先に花枯れの異変がないとは断定できないが、少なくても前例はない。映姫が幻想郷の閻魔でいる内にそのようなな異変が起きるかどうかは甚だ怪しい。
「食べ終わった殻を置く様な場所はある?」
 幽香の声に、映姫の心は居間の雑談へと引き戻された。幽香はひまわりの種を指で弄んでいる。
「気が利かずにすみません。ではこちらにお願いします」
 映姫は天狗が配っている新聞を畳んだまま食卓に置いた。
「新聞と言えば」
 と、幽香はひまわりの種を一粒食べて、殻を新聞紙の上に置く。
「記事になっていたわね。守秘義務の裁きが」
「またその話ですか」
 映姫は箸を止めて幽香を見た。
 つい先日、かつて映姫が裁いた男の話が天狗の新聞に書かれたのだ。
 色恋金銭の怨恨に加えて冗談のような誤解と嘘のような偶然、さらに親子の人情話が絡み合った上に、強盗犯は此岸では未だ不明。
 波瀾万丈の事件の渦中で亡くなった男の話だ。
 ともすれば低俗なゴシップに落とされてしまいそうな話題を、担当記者は真摯に取り扱って記事にしていた。良い仕事だった。
「あなたはそういう話を好みそうには見えませんが」
「映姫の口から聞けるかどうかが気になるんじゃないの。あの記事の内容は、映姫か死神が話したの?」
「そんなわけはないでしょう」
「では、あの記事の信憑性と犯人は?」
「守秘義務です」
「そればかりね」
 幽香の微笑に映姫は顔をしかめた。
「それだけです」
 幽香は水を飲み干すと、お茶に飲み物を替えて里芋を食べ始めた。
「塩煮なのね。美味しいわよ」
 二個、三個と芋に箸を伸ばしている。出された物に一応手を付けるといった気遣いではないようだ。
「ところでそちらの悩みの種の方」
 幽香はひまわりの種が盛られた皿を指した。
「よかったら私に引き取らせてもらえないかしら。食べるためのものを除いて、全部。変わりのものも提供するわ」
 幽香が机を爪でトンと叩くと、ひまわりの種が一つ揺れた。ゆりかごの様に震えながら殻を割って芽吹き、若葉を左右に広げる。
「あ、こんな所で咲かれても」
「見てなさい」
 机の上で巨大なひまわりが咲く様を思って慌てる映姫を幽香が制する。
 芽吹いたものは白い根を皿の上に這わせた。細い茎をまっすぐ上に立てて小さな葉を増やす。映姫の目線の高さまで背を伸ばすと、丸いつぼみを付けて固まった。
「開け」
 幽香の合図で、ぱっと小降りのひまわりの花を咲かせる。
「ごらんの通り、小柄な可愛い子よ。玄関に纏めて植えればいいわ。鉢でも育てられるし、切り花にしてもいいでしょう」
 映姫は小さなひまわりをじっと見つめた。巨大ひまわりの迫力はないが、調和が取れた形の美しい太陽の花だ。
「観賞はもういい? 種を取るわよ」
 幽香が言うと、ひまわりは茶色く矮小していった。花も茎も葉も丸く縮まって、胡桃の実のようなものが出来上がる。幽香がその実を新聞紙の上で割ると、中から細いひまわりの種が出てきた。
「植えて咲いて、また種が余ったら、私に返してくれればいい。どう?」
 映姫は幽香の申し出をありがたく受け入れた。手持ちの生ひまわりの種を全て渡し、幽香から小ひまわりの種を受け取る。
 受け渡しの際に、幽香の指が映姫の手のひらに触れた。
 花弁のようにひんやりした水気を感じて、指先までもが花じみているのかと驚いた。
 幽香の中には花が流れていて、もし何者かに斬られたのなら花が吹雪くのではないだろうか。花吹雪の中で斬られた幽香が微笑んでいる。
 そのような光景までも想像する。昔の歌をも連想する。
 しづ心なく 花の散るらむ。
 花が心を乱すのは、歌人のお墨付きだ。胸騒ぎを落ち着かせようと庭を見ると、外から吹き込んだ赤い枯れ葉が緑の苔に落ちていた。
「すっかり秋ですね」
 映姫の声に、幽香も庭を見る。
「そうね。苔の手入れは良くできているわ。落ち葉枯れ葉がよく映える。秋のあの庭にはこれ以上の花はいらないでしょう」
「これ以上の花ですか」
 今の庭には花らしい花はないのに、幽香は花を見に来たと言っていた。
「今日のあなたはひょっとすると、私に用があって来たのですか」
 映姫が尋ねると、幽香は鷹揚に尋ね返してきた。
「どうしてそう思うの?」
「あなたは人を花にたとえることが多い」
 幽香は変わらず微笑むだけで相づちもなかった。
「春からずっと裁判のことばかり聞いてきますね。あなたの目的はわかりませんが、もし私が口を滑らせて話をしたら途端、私から興味を失うのでしょう。そういった戯れの気配を察します。他人の苦慮を利用して楽しもうだなんて、あなたは他者で遊びすぎている」
 それまで幽香の態度にさほどの不快は感じていなかったのだが、叱責の言葉にしてみたらその身勝手さを知った。天狗のように真実を追究している訳でもないのに、人が守らなければならないものを暴きたてようとする態度は褒められたものではない。
「利用だなんて、心外」
 閻魔の説教を受けて、幽香は大袈裟に肩をすくめて見せた。
「私がとやかく言ったところで映姫は喋らないでしょう。それが花よ。花に咲く花も花。人に咲く花も花。私は花の妖怪よ。花を愛でなければ生きてはいけない。映姫は機密を喋らない。私は花を愛する。互いになんの不実もない」
 幽香はさらりと言った。
「映姫は喋らない。だから私は花を見に来た。それでいいでしょう」
 幽香に念を押されて、映姫は口ごもった。
 守秘義務を貫くのは閻魔の責務だ。喋るはずはない。
 だが今、それを認めると、幽香から花と見られたいがために沈黙を保っているような意味合いにもならないだろうか。
 困惑しながら映姫が幽香を伺うと、幽香は悪戯っぽい笑顔を返してきた。
 きっと幽香は映姫の戸惑いも折り込み済みで、このような話をしているのだ。そう思うとじくりと映姫の腹の底が焼けた。熱い甘酒で喉を焼くような、耐えて飲み込みやすいが後まで残る熱に、映姫は目を閉じる。
「私は話しませんよ。それは誰がどう思おうと関係ありません」
 目を開けた映姫が迷いを振り切るように断定すると、幽香は頷いた。
「ご立派よ、四季様」
 なにやら茶化された様な気もしたが、まともに取り合っても埒が明かないだろう。映姫は割り切って再び箸を握った。
 秋刀魚はすでに頭と骨を残すだけだが、ご飯が半膳ばかり残っている。
「結局お食事の邪魔をしちゃったわね。ごめんなさい。そろそろお暇するわ」
 幽香は立ち上がって優雅にお辞儀をした。
 

 落ち葉敷き詰め夕日を浴びて、大地は黒々重くなる。
 空より白雪降りしきり、草木は根深に眠り込む。


 寒さで目覚めた映姫は、布団の中で身を縮めて震えた。
 湯たんぽを寝床の外に追いやってしまったらしい。手足の先が痛いほどにかじかんでいた。
 こうしていても仕方がない。映姫は思い切って布団から抜け出した。
 足下に転がっていた湯たんぽを拾い上げ、抱えたまま居間に移る。
 陶器の丸火鉢に火を付けて、手足を炙ってようやく一息ついた。
 映姫の冬の暖の取り方は様々な道具のある地獄はもちろん、幻想郷に置いてもやや時代遅れのものだった。
 人里では魔法使いや河童達が作った便利な暖房器具が流行っているし、申請さえすれば地獄の道具を自宅に持ち込むことも出来なくはない。だが映姫は暖房具を増やしたいと思わなかった。身を引き締める冷気が好きなのだ。
 十分に体を温めてから映姫は身支度を始めた。閻魔服に着替え、顔を洗うために裏口の土間に向かう。
 明かり窓の雨戸を開けると、大通りの木に雪が積もっているのが見えた。昨晩の間に積もったようだ。今もちらちらと粉雪が舞っている。
 どのくらいの積雪なのか。勝手口の戸を開けて外を確認しようとしたら、ずしりとした手応えが返ってきた。
 これは積もっているな、と気がついて映姫は腰を入れて戸を押した。
 外の雪を掬いながら戸が開いた。
 一面、雪化粧がされていた。景色が薄明かりに発光して見える。淡い朝日を白雪が拡散させて、どこかしこにも光が行き届いていて影がない。
 一夜の雪にしては深かった。屋根覆いのある戸口周辺にも映姫の靴底が沈むほど。外は映姫の足首過ぎまであるだろう。
 雪かきが必要だ。
 映姫はいそいそと家に引っ込むと、黒いコートに雪長靴をつけて竹箒を担いだ。外に出て屋根に上がる。箒で屋根の雪をかきおろしてから玄関の雪を掃いた。
 表通りまで雪を掻き出すと、屋台を営むものたちが大きなスコップや手押しの除雪機を使って大通りの雪かきをしていた。屋台の店主達は地獄からの試験を兼ねて商売をしている死者が多い。早朝から道を掃く勤勉な姿は裁きにおいて報われることだろう。
 映姫が粉雪を浴びながら腕を組んで死者の働きを見守っていると、背後から傘を差し掛けられた。
「お早う」
「お早うございます」
 このような登場をするものは幽香の他にない。振り返りながら映姫は挨拶をした。
「朝早くから大変ね」
 幽香は傘をさしながら宙に浮いていた。膝を曲げて、椅子に腰をかけたような姿勢をしている。暖かそうな赤いコートに黄色のマフラーを付けて、上等な茶革のブーツを履いていた。靴には汚れ一つない。雪道を歩かずに飛んできたのだろう。
「あなたこそ。こんな雪の朝から私を見に来たのですか」
「ええ」
「酔狂ですね」
「花人なので」
 はらりと笑う幽香の肩や髪には、傘を抜けた雪がついていた。白い氷の結晶を見て映姫は家の玄関を指す。
「上がりますか。暖かいお茶を淹れますよ」
「いいわ。映姫はこれからお仕事でしょう。旅立ちの挨拶に来ただけだから長居はしない」
 幽香は道に降りて映姫の前に立った。映姫にも雪がかからない様に傘を傾ける。
「旅ですか」
「こう寒くなってくると動くのがおっくうになるの。動けなくなる前に暖かくなる方へ花を追うわ」
「三途の川を渡るわけではないですよね」
「暖かそうだし、変わったお花がありそうだから映姫が送迎してくれるなら行ってもいいけれど」
「迎えはともかく、送ることは出来ませんね」
「往復切符がないのなら止めておくわ」
 映姫の冗談を纏めると、幽香は肩をすくめて笑った。
「三途の川に目的がなければ、ここは旅出の方向とは逆でしょう。立ち話ですむようの挨拶のために、ずいぶん遠くまで来たのですね」
「これだけ雪が降り始めてしまったでしょう。春まではここには来られない。今年最後の花の見納めよ」
 言いながら幽香は映姫の髪に手を伸ばす。
「――なにを」
「髪に雪が咲いている」
 映姫の動揺を遮って、幽香は映姫の髪の中に手を入れた。何度か髪を指で梳くと、幽香は映姫の耳の上に棒状のものを差し込んだ。
「よく似合うわ」
 微笑む幽香の言葉から、映姫は髪に何かの飾りに付けられた事を知った。
 手にとって確認しようと胸のあたりまで手を挙げかけ、幽香に見つめられている事に気がついて動きを止める。
 見られている間は、飾りを外してはならない気がした。
 手をだらりと下げて、映姫は幽香を見つめ返す。周囲の冷気のためか、幽香の白い頬はほんのりと紅潮していた。
「寒くはないですか。寒さに強くはないのでしょう」
 映姫が声をかけると幽香は笑って傘を振った。上に積もっていた雪が道に落ちる。
「そうね。そろそろ暖かい方に向かわないと」
「あなたには。あなたにも、何かお礼を」
 何を贈られたのかわからないまま映姫が迷い提案すると、幽香は楽しそうに傘を回した。
「それならそろそろ名前で呼んで貰おうかしら」
「ええ?」
 問い返す映姫に、幽香は自分の胸に手を当てた。
「風見幽香よ。映姫の言霊をわたしに頂戴」
 幽香に導かれる様に、映姫は名前を復唱する。
「風見幽香」
「そう」
「風見幽香」
「そうよ」
 花が開く様にあどけなく表情を開けて嬉しそうに笑う幽香に、映姫は繰り返して名前を呼んだ。
「幽香――幽香。ありがとうございます」
「どういたしまして。映姫」
 幽香はお辞儀をすると、地面を蹴って後方に舞い上がった。
「それでは、また春に」
 傘をさしてふんわりと。タンポポの綿毛の様に風に乗って去ってゆく。
 姿が見えなくなるまで見送ると、映姫は体の凍えに気がついた。手を擦り合わせながら白い息を当てて暖める。そうして柔らかくなった手で髪の飾りを抜いた。
 赤い椿一輪が飾られた、つげのかんざしだった。
 花妖怪の特別な技なのか、花飾りには小さな生花を使っているようにしか見えない。かんざしを持って鼻に当てると幽かな花の香りがした。
 花の香の幽かさに、映姫は幽香を思った。今日の幽香は粉雪の様に幽かだった。静かに舞い降りて、舞い立つ。あれが冬の花というものだろうか。考えながら映姫は手の中の椿を見る。それでもこの椿はきりりと鮮やかに赤い。
 かんざしの香りを嗅ぎながら、映姫は幽香の名前を呟いた。口にした名前が冷気に冷えて、白く丸くなって消える。これも幽香の花だ。幾度か名前の花を咲かせて、映姫は最後に大きなため息をついた。
 何度息を吐いても花が胸から消えてくれない。このままでは花に掠われてしまう。

――春よ、来い。

――春よ、来るな。

 映姫はかんざしを唇に寄せ、幽香の名前を唱えて願った。
「東方の物置場」SSコーナーへ

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